コミティア105の事後報告

8/18(日)、コミティア105に出展しました。

突然ですが、インターネットでいくらでも絵を発表できる今、わざわざ同人誌即売会という、「来場できる人が限られている / たった一日しか発表チャンスがない / 出展するだけで経費や用意する時間がかかる」という最悪の発表環境で、わざわざ同人誌という「お金かかる / 買ったら買ったで物理的に本棚を圧迫して邪魔 / 持ってるだけでだんだん劣化してゆく / 持っていても見ようとしてからアクセスまでに時間がかかる」 という最悪の媒体で人に絵を見せる意味が1つもありません。
なのに、なぜ今どきコミケやコミティアで本を手売りしたがる人がいるのかな?という興味からコミティアに参加してみようと思った。というのがそもそものスタートです。

当日売ったイラスト集「ゆりかご」について。
上のようなことを考えていたので、作る本の内容は詰め将棋的に決めました。
インターネット上でモニタという画素の発光によって可視化される画像に対して、A4冊子に塗料で印刷された絵の利点がいくつかあります。

1.モニタ固有の解像度やカラーバランスのことを考えなくていい。各人の視力に応じた解像度と色覚で見られることが保証されている。
2.物理的に質量のある媒体なので、鑑賞時の意識がコンピュータから切り離される。一つの絵を見る時間が長くなると考えられる。
3.物理的にホチキスで綴じられた冊子なので、連作をまとめて一つの作品として見せることが容易である。インターネットだと飽きたら見るのをやめるが、少ページの本なら、多くの場合、一つの絵を見たら連続的に他のページを見ることになる。
4.記録メディアにアーカイブ(埋蔵)されたデータに対して、本棚に埋蔵された冊子は、不随意なアクセスがある可能性が高い(模様替えの時にうっかりアルバムを眺めてしまう法則)。

以上4点に対応して、イラスト集ならば次のような本を作ることが求められます。
1.印刷可能な極限の細さで主線を描き、それを鑑賞者に全て認識させることが可能。細密な線でも引けば引くほど情報量が高まる。
2.小道具や背景の舞台構造などに仕掛けをしたときに気づいてもらえる可能性が比較的高いので小ネタを仕込めるし、各モチーフの細部の処理にこだわることがクオリティ向上に直結する。
3.作品の前後関係が強固なため、一度登場したモチーフの解釈を変えて再登場させることで確実に情報量が上積みされる。
4.本文に誘導するために、表紙絵のキャッチーさが必要。

まとめると、「線が細かい・芸が細かい・作品の内部に文脈を置いた、絵の連作」を出す絶好のチャンスを同人誌という媒体に見出しました。
テーマの選択方法を語るのは恥ずかしいので割愛するとして、以下は画法の選択方法についてです。

 

「ゆりかご」では絵柄のデフォルメ度が普段より低く、自分らしくないとも思うのですが、これは連作の中で描くべきモチーフ全てを、高いデフォルメ度で描ききる力が自分にはなかったためです。
デフォルメ度の高い、特殊な絵柄の世界では、ありとあらゆるものにデフォルメフィルタがかかっているので、あらゆるものをいちいち記号化して表現しないといけない。
いままで一度も自分の手で記号化していないものを描くには「記号の開発」が必要になるし、記号の自己開発を怠れば、それは自分が描いた絵とは言えません。
なので、描くべき要素の多い今回の連作ではデフォルメ表現は切り捨てました。

絵によって表現可能なものは無限にありますが、絵という表現方法によって人を惹きつける方法を大別するとすれば、それは、

1.絵を構成する、描線や筆致、質感、色、リズムの妙によって楽しませる。
2.世界に対する作者の認識の歪みを絵として出力し、鑑賞者に作者の認識のフィルターを通した世界を疑似体験させる。
3.空想の世界を表現する手段・媒介物として絵という説明方法を用いる。

簡単にいえば、先に言ったものほど抽象度が高く、後に述べたものほど具象度が高くなります。
(上には「写真のような、現実世界を現実的に描いた絵」はどこにも分類できないが、僕の認識ではそれは絵に分類されないので、分類できなくて正しい)

それぞれの要素はスペクトラム的に混在し、どの絵がどのタイプなのかは明確に分類できるものでもないのですが、
今回僕が描こうとしたのは3に近い絵なので、必然的にデフォルメ度が低い(具象度が高い)絵柄になりました。

で、具象度が高い絵というのは、デッサン能力だとか空間把握力だとかが存分に問われることになるんですが、自分はお世辞にもそれらが高いとは言えないので、それらを補うために画面構成に力を入れました。
といっても初めての試みであり試行錯誤の連続だったのですが、「技術的に描ききれない部分を、あえて描ききらない」という逃げの姿勢に説得力を持たせるため、カメラの被写界深度の概念を取り入れました。
つまり、自分が得意な部分のみピントが合ったように明瞭に描き、不得意な部分、詰め切れない部分は、ピンボケしたような不明瞭な状態で描ききってしまうという、後ろ向きの問題打開策です。
「ゆりかご」連作で、やたらと望遠パースを多用したのはこういった理由があります。
ピントが合っているキャラクターの部分は、ClipStudioという線画特化のペイントソフトでアニメのセル塗り的に仕上げる。
ピントがボケてゆく背景部分は、混色表現に強いsaiというソフトで、いわゆるグリザイユ技法(無彩色で明度を表現した上に色をオーバーレイする)ででっち上げる。

描いてゆくうちに、これはアニメの「おじゃる丸」の絵作りにとても似ていると思いました。
「おじゃる丸」では、キャラクターをは明瞭な線でクッキリ描くのに対し、背景はフワフワした水彩塗りで、一見すると妙ちくりんな絵面にも見えるのですが、アニメを見慣れていない子どもでも、見るべき部分に視線を誘導させられる効果があるのかな?
なので、個人的にこの技法を「おじゃる丸遠近法」と呼ぶことにしました。

逃げ姿勢とはいえ、絵は主題をはっきりさせたほうが見やすくなるというのも確かなことで、自分が得意なものは詳しく描き、不得意なものはテキトーに描くという態度は、ある意味正しい気もしています。
そのようなことを書きながら、以前twitterでちょっと口に出したおじゃる丸遠近法について、Blogでさらに言及したかっただけという理由から自分は文を綴り始めたのだと気づいたので、以上で目的を果たし、続きの文を描く気が完全に失せ、コミティア出展についての報告は唐突におしまいです。

コミティアいつかまた出ます。もう二度とフルカラーのイラスト集は出しません(超大変だったから)。

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カテゴリー: 持論を展開

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書いてる人:州倉正和
(すくら・まさかず)198X年生 / 男性 / 東京都中野区在住
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